志太平野の酒造業
                         志太広域事務組合発行・志太ふるさと文庫「志太の伝統産業A伝統の技(H9)より抜粋
                                           監修/若林淳之(元静岡学園短期大学(現静岡産業大学)学長) 取材執筆/鈴木真弓


 日本で米や米麹を原料として酒が造られるようになったのは、中国大陸から稲作文化が渡来した弥生時代で、やがて農耕儀礼と結びつき、神酒として珍重されるようになりました。志太地域にも西暦500−700年頃から酒造りの技を持った帰化人が定住するようになり、各地の神社の祭礼に神酒をお供えするために酒造りが発達しました。中でも藤守八幡宮(現大井川町)では、たびかさなる大井川とその支流の氾濫を鎮める儀礼がさかんに執り行われ、この地に酒造りを志す者を多く輩出しました。
 江戸時代に清酒造りが確立されると、酒造り職人は蔵人、その長は杜氏と呼ばれました。杜氏は灘、新潟、東北など酒造りが進んでいた地域から招かれ、地元職人の指導を行いましたが、やがて技を磨いた職人の中から「志太杜氏」が誕生し、静岡県下全域の蔵元に招かれ、大正時代の全盛期には100人を超え、隣県はもとより、海を越えてアメリカまで出稼ぎに行った者もいたようです。川根という茶産地が近くにあるため、春になったら茶師に転向するも者、サクラエビ漁に出る者もいました、杜氏や蔵人は地場産業の担い手として、各方面で活躍していたのです。
 志太地域の酒造業は今から250年ほど前から始まり、一部落に2軒程度の造り酒屋があったそうです。もともと藤守八幡宮の儀礼に伴う神酒造りが伝承され、酒造りの素地があったこと、大井川の伏流水に恵まれたこと、恵まれる反面、湿地帯が多く裏作が出来ず、稲刈りが終わる秋から翌年の田植えまでの半年間、酒造業に集中できた、また東海道の宿場町等で消費が活発だった事が背景にありました。
 昭和以降、不況による廃業、戦時中の国策で酒造業者が合併を余儀なくされ、後に復活できず蔵をたたむ業者も続出しました。一方で日本経済が復興し、この地は水がいいことから食品会社や薬品会社の事業所が多数進出し、安定した職場を求めて杜氏や蔵人を志すものが減るなど、志太の酒造業を取り巻く環境は大きく変わりました。
 現在、志太地域で稼動中の酒造会社は藤枝市内4社、焼津市1社、岡部町1社、島田市1社となっています。
 
 志太地域の酒造業の強みは、なんといっても豊富な水です。大井川の伏流水は砂礫層や砂利をくぐり自然濾過された水で、酒造りの大敵である鉄分や有機物が少ないうえに、カリウム、カルシウム、マグネシウムも少ないので芳香な酒造に好適とされます。

注1)
大井川の源流部に民家や工場がなく、汚染原因である生活用水の心配がないのが救いでした。
注2)水のタイプは軟水で、酵母の発酵をゆるやかにするため、低温長期発酵の吟譲造りに向いています。飲んでもまろやで美味しく、昭和63年に島田市で全国茶品評会が開催された折には、利き茶をするのに酒蔵の水をい用いたそうです。このような良水が常温(15℃前後)で豊富にあるというが大きな強みです。

 酒造りに使う水は米の10倍、吟醸酒の場合は100倍といわれ、静岡県ではとくに酒米を洗ったり、もろみのしぼり袋を洗浄する際、大量に使用します。最初の米洗いと最後のしぼり。酒の出来具合を決定付けるこの作業に水を大量に使用するため、良質の水が安定供給される土地でなければいい酒は造れないという事になります。他県からやってくる杜氏さんたちは「こんなに水に恵まれているところは日本にない」とびっくりするそうです。水資源を守ることが巡り巡って酒造の灯を守るということを、私たち呑み手も意識しておきたいものです。

志太泉から多少コメント
注1)カルシウム、カリウム、マグネシウムは一般論では酒造りに良い影響を与える成分ですが、多すぎると硬水となります。志太地区の軟水を活かした低温長期醗酵を志向する吟譲造りとは相性が悪いといえます。
注2)大井川伏流水と志太泉の瀬戸川伏流水の水質及びその理由は基本的同系等と思われます。しかしこれに関しては今のところ私の知識では断言できません。

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